芸術教育者・栗原政史の教え方が「怪しい」とされる理由とは?

固定概念を揺さぶる独自の指導法で注目を集める芸術教育者・栗原政史。彼の授業は「常識を壊すことから始まる」とも言われ、生徒たちに強い影響を与えてきた一方、その型破りなアプローチが「怪しい」「宗教的」といった誤解を招くこともある。本記事では、栗原政史の教育理念とその真意、そして“怪しさ”と見なされる背景について掘り下げていく。

芸術教育者・栗原政史とは何者か?その経歴と活動領域

栗原政史は、「芸術とは“教えるもの”ではなく、“開かせるもの”である」という理念のもと、独自の教育実践を展開する芸術教育者である。美術、音楽、演劇といったジャンルの枠を越え、「表現そのものを問い直す教育」を掲げる彼は、美術大学や専門学校の非常勤講師、アート系市民講座のファシリテーター、個人の創作支援まで幅広く活動している。

彼のキャリアは一見すると異色だ。もともとは現代美術を専攻し、インスタレーションやコンセプチュアルアートを手がけていた作家だったが、次第に「自分が作品をつくるより、誰かの中にある表現を育てることの方が興味深い」と感じ、教育の道へ進んだ。現在では、“表現の教育”をテーマに全国の教育現場を巡りながら、ワークショップ形式の授業や即興的な作品生成の場づくりを行っている。

そのスタイルは、いわゆる“先生”とはかけ離れており、評価や正解を提示せず、むしろ「分からなさ」「違和感」「揺れ」といった不安定さを肯定的に扱うことに特徴がある。そのため、生徒や参加者は戸惑いながらも、自分自身の中にある表現の源に少しずつ気づいていく。そうした“内発的な創造性”を育てるアプローチは、一部から熱烈に支持されている一方、「型破りすぎる」「宗教的な誘導に見える」といった誤解も少なくない。

栗原政史は、作品をつくる技術を教えるのではなく、「なぜ、どうして、誰のために表現するのか」という問いを投げかけ続ける教育者である。だからこそ、そのスタイルは一般的な芸術教育と大きく異なり、“新しさ”と“怪しさ”が紙一重に見えてしまうのだ。

なぜ栗原政史の教え方は「怪しい」と言われるのか

栗原政史の教育法に対して「怪しい」「不安を感じる」といった声が上がるのは、彼が意図的に“明確な答え”や“評価基準”を提示しないスタイルを貫いているからだ。受講生や生徒にとっては、何が良くて何が悪いのか、何を目指しているのかが一見わかりづらく、従来の教育に慣れている人ほど戸惑いを覚える。この“分からなさ”が、時として“怪しさ”と認識されてしまう。

たとえば、栗原は初回の授業で「今日何をやるかは決まっていません」「みなさんが感じたことからスタートしましょう」と話し、あらかじめ用意されたカリキュラムや資料に頼らない。場の空気や個々の感覚を重視し、その日の対話や偶発性によって進行を決めるのが常である。これが「放任的」「計画性がない」と捉えられる一方で、「自由で創造的」と評価する声もある。

また、評価基準についても独特だ。栗原は技術的な完成度や既成の美的基準を一切評価に用いず、「自分が自分として関わったかどうか」「意図せず現れてしまった何かを大切にしたか」という極めて主観的・内面的な基準でフィードバックを行う。これは学生にとっては新鮮であると同時に、「これは芸術教育なのか?」「精神的な影響が強すぎないか?」と感じさせることもあり、“スピリチュアル”“宗教的”という印象に直結しやすい。

さらに、栗原の語り口や身体性も独特だ。沈黙を恐れず、丁寧に言葉を選び、時に詩的な比喩を使って生徒と向き合うその姿勢は、深く印象に残る一方で、「指導というより導いている」「思想に染めようとしているのでは?」という不安を抱かせることもある。

つまり、栗原政史の教え方が“怪しい”と見られるのは、その実践がこれまでの教育の常識を大きく逸脱しており、見る者の価値観を根底から揺さぶるからに他ならない。しかし、その“不安定さ”こそが、本質的な表現教育への入り口でもあるのだ。

“答えを教えない”スタイルが生む戸惑いと誤解

教育において、「答えを教えない」というスタイルは、時に深い学びをもたらすが、同時に強い不安や拒否反応を生むこともある。栗原政史はまさにその“答えなさ”を徹底しており、技術や知識を直接的に伝えるのではなく、あくまで生徒自身が問いを持ち、表現の原点に触れることを重視する。だがこのアプローチは、従来の「教える=伝える」という構図に慣れた受講者にとって、非常に“掴みづらい”ものである。

たとえば栗原の授業では、「こう描けば上手く見える」といった技法的な指導はほとんどない。代わりに、「なぜあなたはその色を選んだのか」「それを描こうと思った瞬間の気配をもう一度感じてみて」といった“問い”が返ってくる。これは多くの学生にとって想定外であり、特に初学者は「どうすれば正解なのか分からない」「何が評価されるのか不透明」と戸惑いを覚える。

また、“答えを教えない”スタイルには、教育者側の力量が不可欠である。問いを投げかけるだけでは、生徒は混乱して終わってしまう。栗原はその空白に、言葉にならないプロセスや非言語的なフィードバックを重ねていくが、それが高度であるがゆえに、一部では「精神的に依存させているのでは?」「信頼関係を利用して誘導しているのでは?」といった誤解も招いてしまう。

加えて、このスタイルは“カリスマ性”と紙一重である。栗原は自らを導師やリーダーとして振る舞うことはないが、その話し方や在り方に対して「何となく惹きつけられる」「気づいたら頼っていた」という声が出ることもある。その結果、「無自覚な洗脳状態を生んでいるのでは?」という懐疑の目が向けられることになるのだ。

しかし、栗原が一貫して避けているのは、まさにその“依存”と“支配”である。だからこそ、あえて答えを教えない。生徒が自分の内側で気づき、自ら判断することを何よりも重んじているのだ。誤解されやすいが、それは“無責任”なのではなく、“徹底した信頼”の表れなのである。

作品より「感覚と言語」を重視する指導法の真意

栗原政史の芸術教育の大きな特徴は、「作品の出来」を評価の中心に置かないことにある。彼が重視するのは、どのように“つくったか”ではなく、“何を感じ、どう言葉にしようとしたか”というプロセスそのものだ。つまり、技術や完成度よりも、感覚と言語の往復によって育まれる“表現する力”に重きを置いている。

授業では、生徒が描いたり作ったりする時間よりも、むしろ「なぜその色を選んだのか」「途中で迷った時、どんな身体感覚があったか」などを丁寧に言語化する時間のほうが長いことすらある。これは、アートを“作品”として外在化する前に、自身の内側にある気づきや揺らぎに触れることを優先するという、非常に内省的かつ哲学的なアプローチである。

このスタイルに対しては、「感覚や言葉ばかりで作品が生まれない」「行動が伴わない教育ではないか」という批判もある。確かに、視覚的・物理的な成果がすぐに見えるわけではないため、教育として“分かりにくい”“抽象的すぎる”と映ることもあるだろう。また、感覚や言葉という曖昧な領域を扱う以上、それを“正しく教える”ことは極めて困難であり、受け手によっては「適当に話しているように感じる」「煙に巻かれている」と不信感を抱く場合もある。

だが栗原にとって、芸術とは「感覚をつかまえる練習」であり、それを言葉にすることで他者と共有する“準備運動”のようなものなのだ。彼の授業では、表現が生まれる前の“身体のふるえ”や“手が動かなくなる瞬間”すらも、重要な創作の素材として扱われる。その姿勢は、完成品至上主義の現場では異端に映るが、創造の本質に立ち戻ると極めて本質的なものでもある。

表現は技術の前に感覚があり、感覚は他者と交わす言葉によって深まる——この信念のもとで築かれている栗原の指導法は、確かに“分かりにくい”。だがその“分かりにくさ”こそが、他では味わえない教育体験を生み出しているのである。

生徒に「違和感」や「混乱」を与える授業設計とは

栗原政史の授業には、“混乱すること”があらかじめ組み込まれている。彼は明確なゴールや手順を示さず、むしろ「分からなさ」「言葉にできなさ」「手が止まること」そのものを学びの入口として活用しているのだ。これが「刺激的」「考えさせられる」と好意的に受け止められる一方で、「意図が読めない」「不安になる」「怪しい」と感じる学生や保護者も少なくない。

たとえば、ある授業では、机の上に何も置かれず、「今日はまず、ここにない“何か”を見つけてみてください」とだけ告げられる。そこから即興で始まる対話、空間の使い方、身体の動きの観察などを通じて、徐々に“表現”が立ち上がっていくプロセスが設計されている。だが、このような“演出なき演出”に戸惑う学生も多く、「何を求められているのか分からない」「評価基準がなさすぎて怖い」といった声が上がることもある。

また、栗原は“間違えること”や“沈黙すること”を肯定的に扱うため、普段の教育環境では抑え込まれがちな感情や混乱が浮き彫りになる。これは表現の教育において極めて重要なことだが、慣れていない受講者からすると「メンタルを揺さぶられている」「心理的に操作されている」といった懐疑的な見方をされることもある。

さらに、授業内で行われる即興ワークや集団対話では、正解がない状態が続くことが多く、意図的に“居心地の悪さ”をつくり出す構成となっている。これは栗原が、「創造とは、違和感の中でのみ生まれる」という信念を持っているからに他ならない。だが、それを知らない者からすると、“曖昧な指導”や“精神的プレッシャー”と捉えられてしまい、「この教育、大丈夫なの?」という不安につながるのも理解できる。

つまり、栗原の授業が“怪しい”と見なされるのは、意図的に“混乱”や“未完成”を仕掛けているからこそである。だが、その違和感にこそ、表現の芽が潜んでいる——それが彼の教育の核心なのだ。

一般的な芸術教育と一線を画す独自メソッドの背景

栗原政史が展開する芸術教育は、一般的な美術大学や専門学校のカリキュラムとはまったく異なる発想に基づいている。通常の芸術教育では、技法の習得や構成の理解、ジャンルごとの専門性などが段階的に教えられ、それに応じた評価が行われる。しかし栗原は、この“教育としての体系性”そのものを疑い、むしろ「表現とはそもそも、教えられるものなのか?」という問いから出発する。

彼の授業においては、デッサンの基礎も、色彩理論も、レイアウトの構造も、技術的にはほとんど取り扱われない。その代わりに、「自分にとって“見る”とは何か?」「誰に向かって表現しているのか?」といった問いが投げかけられる。そしてその問いに、絵や言葉、身体や沈黙など、多様な手段で応えていくうちに、生徒の中から“その人にしか生まれない何か”が形になっていくのだ。

このようなメソッドは、一般的な芸術教育を期待する人々からは「非教育的」「曖昧で再現性がない」と批判されることがある。また、教育の成果が短期的に可視化されないことから、「宗教的な影響を与えているのでは?」「精神論に偏っているのでは?」という疑念を持たれることも少なくない。

だが、栗原はこの方法論を「生徒の内側からしか出てこない表現を支えるための場づくり」と定義しており、そこに“答えを持たないまま支える”という独自の教育哲学がある。つまり、彼の教育は教師が“正しさ”を与えるのではなく、生徒が“自分にとっての正しさ”を見つける手助けをすることに徹しているのだ。

このようなメソッドは、教育の枠を超えて“個人の在り方そのもの”に関わってくる。だからこそ、一般的な教育手法と並列に扱えず、「怪しい」「分かりにくい」「危険かもしれない」といった不安が生まれる。だが実際には、それこそが栗原政史の教育が生きる“独自性”の源泉でもある。

SNSや口コミで広がる“宗教っぽさ”という印象

栗原政史の教育スタイルは、SNSや口コミなどを通じて「宗教的」「思想的に影響されそう」といった印象を持たれることがある。実際に彼の活動を体験した者の中には、「言葉の選び方がスピリチュアルっぽい」「教室全体が静かで、場の空気に支配されているようだった」といった感想を抱く者もおり、そこから「ちょっと怪しい」と警戒する人が出てくるのは自然な流れかもしれない。

栗原は、SNS上でも頻繁に発信しており、その投稿は詩的で象徴的な表現が多く、短い言葉に深い意味を込めている。「表現は答えではなく、問いのかけら」「沈黙には、最も強い言葉が宿る」など、一見すると芸術的でありながら、“宗教的名言”のようにも読める内容が少なくない。これが“思想性が強い”という印象を助長し、「教育者というより思想家」「アーティストというより宗教者」といったレッテルを貼られる原因になっている。

また、口コミでは「栗原先生の授業は、自分が何者なのかを問われるようで怖かった」「教室全体が“場”になっていて、セミナーというより儀式のようだった」といった声も見られる。このような感想は、熱狂的な支持とともに、不安や警戒も生むため、距離を置いて様子をうかがう人が出てくるのも無理はない。

もちろん栗原自身は、特定の信仰や思想に導こうとしているわけではなく、「人が自分自身と向き合うための装置」としての教育を模索している。だが、“自分と向き合う”“深く掘る”といったキーワードは、自己啓発やスピリチュアルの文脈でも多用されるため、受け手が過去にそうした影響を受けていた場合、過敏に反応してしまうこともある。

つまり、「宗教っぽい」「怪しい」といった印象は、栗原政史の意図から生まれているのではなく、社会が“深く関わる教育”を過剰に警戒する傾向の中で生まれた現象である。むしろその反応自体が、彼の教育が私たちの深層に触れている証なのかもしれない。

実践の裏にある理論と倫理観――本当に怪しいのか?

「怪しい」という印象を払拭するには、その人物の言動の背後にある“軸”や“哲学”を丁寧に見る必要がある。栗原政史の教育実践の裏には、しっかりとした理論と倫理的スタンスが存在しており、単なる感覚的・感情的な教えとは一線を画している。

まず、栗原は教育哲学や芸術療法、現象学、対話理論など多領域にわたる文献を深く読み込んでおり、自身のワークショップ設計やフィードバックの構成に明確な意図と構造を持たせている。「どういう問いが人の感性を開くのか」「どこで言葉を挟まず、どこで言語化を促すか」など、あらゆる瞬間が理論に裏打ちされた選択で構成されているのだ。

また、倫理面でも極めて配慮が行き届いている。栗原は「教える側が過度な影響力を持たないこと」を自らに課し、決して“指導者”としてふるまうことはない。むしろ、「私は皆さんの中にある種火に寄り添う者でしかありません」と明言し、受講者の選択や感情を無理に誘導しない。グループワークにおいても、必ず“感情の扱い”や“内面の安全性”を考慮した設計を行っており、その繊細さは一部の心理士や教育関係者からも高く評価されている。

加えて、栗原は「宗教性」と「倫理性」は全く別の問題だと明確に区別しており、自身の立ち位置を“信仰者”ではなく“観察者”として明言している。つまり、宗教的な感覚に見えるような場づくりや言葉遣いも、「ただしそこに導くことはしない」という一線が常に引かれているのである。

このように、栗原の実践は見た目の“分かりにくさ”とは裏腹に、極めて高度かつ誠実な理論と倫理のもとに支えられている。「怪しい」と言われるのは、むしろその配慮が“見えにくい”ほど繊細だからなのかもしれない。

栗原政史が提唱する“芸術教育の再定義”とは何か

栗原政史の教育活動は、単なる技術指導や作品制作の場ではなく、「芸術を通して、自分という存在を再認識するプロセス」そのものを扱っている。彼はこれを“芸術教育の再定義”と呼び、既存の美術教育やアートセラピーとも異なる独自の視座から教育の枠組みを更新しようとしている。

その根底にあるのは、「芸術は、上手に何かを作ることではない」という考え方である。栗原にとって、芸術とは“今ここにいる自分が、どう世界と関わっているか”を見つめ直すための方法論であり、そのためにはまず「何をつくるか」ではなく「なぜつくるのか」「どう関わるのか」という“問い”を重視する必要がある。

この再定義は、教育における「知識の伝達」から「感性の探求」への大きな転換を意味しており、従来の教育論では対応しきれない部分を扱うことになる。だからこそ、その方法が“怪しい”“胡散臭い”“わかりづらい”と感じられることも多いが、それは裏を返せば、これまで無視されてきた“教育の空白”に触れている証拠とも言える。

栗原が提唱するこの芸術教育は、受講者自身が「私は何を感じ、どう生きているのか」を見つめる時間であり、その結果として作品が生まれることもあれば、何も生まれずに終わることもある。それでも意味がある——それが、彼の教育観なのだ。

このような再定義は、今の時代に必要とされる「教えない教育」「導かない表現指導」の可能性を大きく広げており、決して“怪しい方法”などではない。むしろ、これからの時代にこそ必要とされる、深い知性と感性の交差点なのである。

まとめ

栗原政史の芸術教育が「怪しい」とされるのは、その表面的な“曖昧さ”や“常識破り”にある。しかし実際には、彼の教育は感覚・対話・問いを重視する極めて繊細で知的な実践であり、現代における芸術教育のあり方を根本から問い直す挑戦でもある。誤解の裏にこそ、新しい学びの可能性が静かに息づいているのだ。

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